アケマスで如月千早という偉大なアイドルを初めてSランクに押し上げた翌日、次の活動までに休息が必要だろうと、二人乗り込んだかがやき号で向かう先は石川県は金沢市。
「片町に宿をとってるからバスで行くぞ。金沢は地理とかで習ってるだろうけど歴史ある城下町で、よくある地方都市と同様に新幹線駅と中心街が離れていて……千早?」
先ほどまで隣にいた千早の姿が忽然と消えていた。
右見て左見てもう一回右見て、待てど暮らせど……いない。いや、暮らせどなんて言ったけど、大げさだった。その間10分程度なもんでさ。
……そこの君、ガッカリしないでもうちょっと待ってくれ。「如月千早なんて幻影だったんだ!」なんてよくあるオチじゃないぞ。今から事務員の音無さんに電話するんだから、少なくとも765プロは存在してるわけで。
『はい、プロデューサーさん、どうかされました?』
「なんか千早がいなくなっちゃって」
『先、ホテルに行っちゃったんじゃないですか?』
「えー、俺を置いていくなんて非道い。これでもSランクまで導いた凄腕プロデューサーですよ」
『あくまでオフラインで、ですけどね』
「いや本当に。古強者たちはオンライン環境でいったいどうやって……ってそうじゃなくて。予約したのって、スケスケホテルの密着相部屋ですよね?」
『それ情報古いです。千早ちゃんから抗議があって宿泊先変えておきましたよ』
「ええっ、怒って先に行っちゃったのかな? で、変更先は」
『【タレルの部屋】です』
「なんですかそれ」
『とにかく、21世紀美術館に向かってください。バスの番号は13か90か92か93か……』
「系統が多すぎる!」
一日目
【タレルの部屋】は金沢21世紀美術館に常設された美術品の一つだ。しかし美術品とは言っても、それは施設内の一室。一室が丸ごとアートになっているのだ。
自動ドアが開いて部屋に踏み込む。出入り口は一つ。縦横は正方形で、高さはビル2階ほどだろうか?
部屋の四方は出っ張りがあって、腰を掛けられるようになっている。
誘われるようにその石造りのベンチへ腰を下ろし、わずかに傾斜した壁に背中を預ける。内部に暖房が入っているのか、背中に熱を感じて心地よい。
体が倒れると、自然と視線が天井に向く。そこには雲があった。しかし描かれているのではない。天井がこれまた正方形状にくり抜かれ、直接空が見えるのだ。
このように【タレルの部屋】は奇妙な半屋外の美術作品である。
「どうやら貸し切りになってるみたいだけど」
数分間、鑑賞行為を続ける。灰色の雲を眺め、奇妙に反響する音を感じるも、徐々に飽きてきたから、どこかでコーヒーでも飲みながら千早を待とうと自動ドアの前に立つ。
「……開かないんだけど? 俺の存在が薄すぎてセンサーが感知しないとか?」
その場でくねくね踊ってみる。しかし開かない。ドアには凹凸もないから引っ張って無理やり開けることもできない。
「えっ、どうしよう。閉じ込められた? おーい、出してくださいよォ!!!」
ポケットにスマホのバイブレーションを感じて取り出すと、音無さんからの着信。
『プロデューサーさん、言い忘れてましたけど、千早ちゃんが来るまで部屋からは出られないらしいです』
「ど、どうしてそんなことに!? もう入っちゃいましたよ!」
『だったら千早ちゃんを待って……』
「それじゃあ、待つだけで何をしても出られない部屋じゃないですか!」
『そんなことはないと思いますけど』
「大体トイレとか行きたくなったらどうするんです!? もし全然千早が来なかったら食事は……」
『予約票を読みますね。【食事・排泄は腰掛けに適宜用意】とだけ』
「風呂とかどうするんです!?」
『ではプロデューサーさん、頑張ってくださいね』
「頑張ってと言われても……あっ、通話切れた。なんか音無さん、妙に厳しくないか? うーん……」
再び腰掛ける。雲は途切れず、ほとんどフラットな天井が広がっていた。
音無さんからの電話が切れてから数時間。
分かったことがいくつかある。
腰掛けをくまなく調べると、その一部が蓋のように空いて、食事と飲み物が放り込まれている。入っていたレシートの記載によると、この近くにある手作りサンドイッチの店の品らしい。
コロッケの挟まれたクロワッサンサンドと、フルーツサンド、そしてコーヒー。空を眺めながら頬張る。ついでに対面の蓋をあけると便座が現れたから、基本的な生活には問題ないらしい。ご丁寧にウォシュレットと不快な音をかき消す装置付きだ。
「こんなところで一体誰に配慮しろと?」
スマホや仕事用のラップトップは手元にあるが、電源はないから温存しておいたほうがいいだろう。
とにかく、重要なのは千早がいつ現れるかだ。
自然とお別れコンサートでの千早の姿を思い出す。
オーディションを勝ち抜き、たくさんのファンを獲得した末の、ドームでの巨大なうねり。
最後の曲、『蒼い鳥』が流れる最中、そこには永久の昂揚があった。この独房で、その瞬間を思い浮かべただけで涙が溢れるような、雷に打たれる程の記憶。
……いいや、ここは決して独房じゃない。千早との宿泊先だ。
音無さんが嘘をついたことはない。だったら、千早が来るまで待とうじゃないか。
立ち上がり、部屋を一周する。足音が壁に響いて外へと消えていく。この部屋は一方通行だ。音が出ていくばかりで、決して入ってくることはない。
だとしたら、千早は一体どうやって?
ただただ、その声が聞きたかった。
二日目
4月初頭の北陸は決して暖かいとは言えなかったが、寝袋完備で眠りにつくのは難しくなかった。
最初に覚醒したのは耳。無数の水滴が床を叩く音が周囲を巡って天井へ抜けていく。
目を開ける。やはり天気は雨。半屋外の部屋に容赦なく雨水が降り注ぐが、腰掛けの上方はせり出して屋根になっているので濡れることはない。
寝ぼけ眼をこすりながら食事の箱を開ける。のどぐろ塩焼きとホカホカのご飯だった。シュールではあるが、それ以外にすることがないので朝食を摂る。
「うん……うめー!!!」
大げさに叫んでみる。言葉は散って灰色の空へと還る。少なくとも千早には届いていないようだ。
四角い空から一日中雨が滴る。まるで映画のようだ。
濡れた床にできた雨模様。雲空の色の僅かなムラ。一見無意味なことにじっと思考を巡らす。
いつだったろうか、初めて千早に会ったのは。もはや遠い記憶で定かではないのだが、別れのとき千早は泣いていた。失敗したからだった、アイドルとして。俺たちは何も残せなかった……。
「あの千早に、報いることはできただろうか」
時間が流れていく。雲の流れ、去りゆく雨音、自分の心臓の音。そのすべてに如月千早の残滓を見る。
この場所に音は入ってこない――ここは音が出ていく場所、源なんだ。
だから、千早はここに必ずいる。
ドームライブ。序盤は以前の公演にならってフルオーケストラを入れた。その軍勢の先頭を切って、千早が歌っていた。
中盤は各界のプロフェッショナルを呼んだバックバンド。アイドルの枠を優に超えた、エネルギー溢れるセッション。
そして最後……だけど、やっぱり千早はアイドルなんだ。
ドームのど真ん中、センターステージ。数万の瞳の対が、その一点にじっと視線を注ぐ。
スポットライトに照らされた中に、それは在った。
雨足が止む。意識が朦朧とする。
雲が切れて月が見えた。光が降り注ぐ。あのドームの最後のように。
俺たちの思い出をすべてぶつけたあの一曲のように。
三日目
空が赤い。
時刻はまだ早朝。
それは燃えるような朝焼けだった。
朝焼けには希望が眠っている――再起の印だ。
ただ嬉しかった。だって、Sランクのあとに何を探せばいいのか分からなくなっていたから――
「プロデューサー」
部屋の中央で長髪が揺れた。鼓膜を揺るがす、美しい声で一気に覚醒する。
「……遅かったな、千早。随分探したんだぞ」
「遅かったのはあなたの方では?」
「ははっ、そうかもしれない」
「ごめんなさい、見つけてくださって嬉しいんです。部屋の中とはいえ、二人の行ける場所は……」
「月が見えた。ここからだって簡単に届いた……とてつもなく広かった」
「必死に探してくださっていたの、見えてました」
「人が悪いな。合図してくれよ」
「歌を歌いましたけど」
「そうか、やっぱり……ここに放り込まれたのは……」
「どうかされましたか?」
「いいや、こっちの話だ。あとで音無さんに聞いてみるか……」
「……私が目の前にいるのに、他の女性の話をしないでください。たとえ、音無さんであっても」
「すまんすまん。どうだ、この部屋自体が作品なんだ。一緒に鑑賞しないか?」
「隣に座っても?」
「もちろん、どうぞ。最初は退屈だなと思ったけど、これが案外楽しいんだ」
肩を寄せて、背中を壁に預ける。今日の天気は快晴だった。時折流れてくる雲の白と青い空のコントラストが眩しかった。
触れ合う腕から熱が伝わる。
一日何ともせず、空を見、お互いの放つ音を聞き合う。
心臓の音と呼吸の音。
「ここで歌えば全てに届くでしょうか」
そこには歌う千早が居た。
ドームの大観衆の前より、美しく、気高く。
思わずつばを飲む。
空が夜に溶けていく。星がめぐり、歌のように時が一周する。
巨大な啓示の感覚。
四日目
「ねえ、プロデューサー」
ふとした千早の声で目覚める。既に部屋には日光が降り注いでいた。まだ体に千早の熱が残っている。
言葉を続ける千早。
「あの、失礼かもしれませんけど……ちょっと体の臭いが……」
「だって、ここ風呂ないんだもん! 汗拭きシートでなんとかしてたけど」
「まず朝はお風呂に行ったほうがいいかもしれませんね。それから近江町市場でご飯を食べて」
「金沢カレーだな」
「ひがし茶屋街と兼六園も……」
「奮発して観光タクシーでも借りるか」
「この部屋に未練はないですか?」
「もう散々見たよ。いい思い出もできたし」
二人で自動ドアの前に立つ。当たり前のように、二人を祝福するかのように、それは音を立てて開く。
「……あっ、私、ちょっとだけ美術館を回ってきます。地震で有料展示はまだ見られないようですから、すぐに終わると思います」
「ああ、いってらっしゃい。俺はその辺に座ってるよ」
美術館の壁はガラス張りで、外の展示を鑑賞する人や、咲き始めた桜の写真を撮る人が見えた。
ふとした瞬間、再びスマホが震える。電話の主は音無小鳥。だが、口を先に開いたのは俺の方だった。
「音無さん、心配かけてすみませんでした」
『いえいえ、プロデューサーさんをサポートするのも私の仕事の一つですから』
「部屋に放り込まれたのは、千早を感じ取る能力を蘇らせるためなんですね」
『半分正解、半分はずれといったところでしょうか。その能力は、千早ちゃんの方にも求められているんです』
「そうでしたか。千早の存在をありありと感じられるのは、こういうときなんです。Sランクのライブや、他にも過去たくさんの機会があった」
ガラスの外に千早が現れた。美術館を一周してきたのか、こちらの姿を認めて、くるりと回転。口を動かして、何かを言っている。
俺は話を続けて、
「だったら、自分からそういうプロトコルを実行すればいい。そうすれば、あの感覚がやってくる……俺はこれを再現性のある啓示と呼ぼうと思います」
『その方法を知っている限り、千早ちゃんとは永遠に離れられなくなるかもしれませんよ』
「それは望むところです。愛は儚いですが、絆は永遠ですから」
『わかりました。でしたらしっかり千早ちゃんをエスコートしてあげてくださいね』
音無さんとの会話を終えて、千早と金沢を回る。思い出を積み重ねて、あらゆる時間を超えられるように。
— たいつР (@TaiTsuTTsu) 2024年4月3日